世界は「問い」でできている?

 

 

中学生の頃、哲学とは真理を追求する学問と教わり、いつの日か、この世界のすべてを透徹するような絶対的真理が発見されるのだろうとわくわくしたのを覚えている。それは例えば「我思う、故に我在り」や相対性理論の数式「E=mc2(2乗)
」などといったそれぞれの時代の発見が更新されいつか究極の真実にたどり着くのであろうと思っていた。

しかしつい最近、中学の時に思い描いていた「哲学の真理の追求」はそういえば現在どうなっているのだろうと思い、ざっと現代思想の本を読んだところによると、物事はやはりそう簡単ではないようであった。「世界とは何か」「真実とは何か」のような問いの主体が誰であるのか、という点や言語の影響、時代の影響等々によって、発せられる問いの前提自体がぐらついている、または問い自体が検討の対象ともなっているようにも感じた。また、哲学が答えるべき問い自体も今となっては問いが分割され、もはや無数の問いがあふれてしまっている印象を受けた。

ということは、あるいは、であるならば、究極の真理というものがどこかにあり、いつかそれを発見あるいはそこに到達するのではなく、むしろ答えは存在せず、分割され無数にある問い自身こそが世界を形作っているのではないだろうか。
私たちがこの世界を把握したいという想い(=問い)が、私たちのこの世界を作っているのではないだろうか。私たちの問いによって、世界はその姿を変幻自在に変えうるものではないだろうか。